握り早漬け
創始者と伝えられる華屋与兵衛の曽孫にあたる小泉清三郎らの記録によれば「握るすし」というのは与兵衛以前にもあった。しかしそれは、小さく握った飯の上に魚を貼り付け、箱の中で笹の葉の仕切りはしてあったが、要は、箱ずしである。
この手間と、押し付けることで魚の脂分が抜け出てしまうのをきらった与兵衛が考えついたのが、現代われわれが考えるような握りずしだった。当時は「握り早漬け」と呼んだという。
江戸前寿司とは
江戸前という言葉を最初に使ったのはうなぎ屋だった。徳川家康は江戸の街づくりに取り組み、石神井川の流れを付替えた。江戸城の前の浅い海を埋め立てて土地を造成した。現在の宮城前、馬場先門の辺りが沼に変わった。その後この沼でたくさんのうなぎが取れるようになった。
人夫たち(大工工事)は昼飯の惣菜にと、このうなぎに目をつけた頭の良い人物がいて、うなぎに味噌をつけてブツ切りにして竹串にさし、焼いて売り大儲けした。江戸(城)前のうなぎの蒲焼の誕生である。
そのうちに、「江戸前」の呼称は江戸の前の海で捕れる魚介類の呼称となった。
およそ文化年間(1818~1830)に、江戸で誰かが思いついたものらしい。それまで、すしは江戸でももっぱら関西流の押しずしだったのである。
屋台の店のすし職人の誰かが、思いついてすし飯に刺身をのせ、握って、インスタントのすしをつくったのではないか、と思われる。
すでに箱ずしも押してその場でただちに食べられる早ずじが大阪で人気を得ていたのだから、押しずしを切り分けたひと切れのすしがヒントになったのだろう。
押しずしは本当は押してから少し時間がたった方が、具とすし飯が調和して旨い。しかし気の短い江戸っ子には、悠長な食べ物は気に入らなかったとみえ、目の前で握って即座に食べられる握りずしがあらわれると、たちまち爆発的な人気をとったらしい。